歴史の匂いを【2】

●庚午事変

明治3年5月13日の早朝、徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折、蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸や益習館(稲田家の学問所)、宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、火を放った。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、別邸や益習館などが焼失と多数に及んだ。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。

江戸期、阿波の殿様は蜂須賀家でした。元々は尾張の豪族で、戦国末期に豊臣秀吉に仕えたことでとんとん拍子に出世して、阿波の国と淡路の国2国の太守の地位を得ました。秀吉に使えた初代の蜂須賀小六正勝は、生涯秀吉の側に仕え、その子蜂須賀家政が阿波藩の藩祖となっています。

稲田家というのは戦国期この蜂須賀家と同格の盟友だった一族ですが、秀吉の配下に入るにあたり、指揮系統上蜂須賀の下にまわり、そのまま蜂須賀家が国持ちの大名になってからもその家老職に甘んじてきた家でした。それでも蜂須賀家は盟友稲田家に対し淡路の国1国と阿波の国内の美馬郡を領地に与えるという最大の待遇で遇しており、平和な時代はそれでとりあえずこともなくいっていました。
 
こういう状況に火をつける契機となったのが、維新の動乱でした。

幕末維新の動乱期に、時勢を読む眼もなく確固たる藩の姿勢もなかった阿波蜂須賀藩は、様子をみていて勝ちそうな側につこうとしました。

そんな蜂須賀家の姿勢に対して、稲田家だけが鳥羽伏見の戦いの際、いち早く軍勢を薩長軍側に送り、倒幕の姿勢を鮮明にして名をあげたのです。

この稲田家の行動は藩内にあっては藩の家老職にありながら藩の方針に従わずスタンドプレーをしたということで、藩内に「稲田憎し」の感情を植え付けることになりました。

明治政府は、明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすことに。稲田家当主は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家家臣は陪臣のため卒族にされることとなった。卒族では藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかった。また、稲田家との主従関係が断ち切られることに対する不満も強かった。稲田家は密かに有力公家に懇願して蜂須賀藩からの分藩を策謀しはじめました。

このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら洲本在住の一部過激派の決起となりました。
この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく、徳島藩側主謀者10人がうち首(のちに切腹)、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に至るに及び、襲われた稲田側はかねてより望んでいた家臣の士族としての身分は認められたものの、北海道静内郡と色丹島への移住開拓を命じられ、主従ともども北海道に移り住むことになりました年日高国静内へと移って行きました。

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映画『北の零年』、NHK金曜時代劇『お登勢』のモデルになったお登勢像。山麓の洲本城跡(大浜海水浴場近く)にございます。

[スタッフ:原田]
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