高田屋嘉兵衛 vol.2

高田屋嘉兵衛は、1769年淡路島(現在の五色町都志)の農民の子として生まれる。幼い頃から海に親しみ船に興味があった嘉兵衛は、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志して出て、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗ることに。1790年に樽廻船の水主から、船頭となりました。船乗りとして非常に優秀だった高田屋嘉兵衛は、異例の早さで出世し、西廻り航路で交易する廻船問屋として海運業に乗り出します。そして28歳で、当時国内最大級の千五百石積の船「辰悦丸(しんえつまる)」を建造し、本格的に松前藩の影響が少なかった、まだ寂しい漁村にすぎなかった函館を商売の拠点としました。函館の街づくりにも尽力しました。

辰悦丸・模型.jpg
近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行い、蝦夷地経営で富を築いた。蝦夷地の原住民アイヌ民族とも友好な関係を気付いていきました。
日本の江戸幕府は鎖国政策を堅持していたが、日本との通商を求め、千島列島を南下してくるロシアに対する国防対策を急ぐ幕府に協力して、高田屋嘉兵衛は択捉島と国後島間の航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者として活躍していきます。

露米会社を設立したニコライ・レザノフは日本人漂流民の津太夫一向を返還し、通商を求めるために来日し、1804年(文化元)9月に長崎へ来航。翌1805年3月に長崎奉行所において遠山景元が対応し、通商を拒絶される。レザノフは漂流民を返還して長崎を去るが、1807年(文化4)、フォボストフらロシア軍人2名を雇い択捉島や樺太に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる。幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整えさせて蝦夷地沿岸の警備を強化、北方探査も行った。ロシアではフォボストフらは処罰されるが、日本の報復を恐れて日露関係は緊張した。1808年には長崎でフェートン号事件も起きており、日本は鎖国政策を堅持し、対外姿勢は硬化していた。

1811年、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中将ら8名を捕らえ抑留した。ゴローニンらを人質に取り、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長のリコルドはロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌1812年(文化9)に再び来日、8月には国後島においてゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶しました。

副艦長リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らをカムチャッカへ連行抑留しました。嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件は、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、遂にゴローニン釈放にいたる両国の和解を成し遂げました。

日露友好の像.jpg

晩年は隠居して故郷淡路島(五色町都志)に戻り、港や道路の修築など、郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、59歳で自宅で静かにその生涯を閉じました。

記念碑.jpg

高田屋嘉兵衛の墓.jpg

高田屋嘉兵衛の墓は、菜の花ホールから少し離れたところにあります。

何故、菜の花が命名されてるかといえば、高田屋嘉兵衛が自分の人生を菜の花に例えたからだそうです。

[スタッフ:原田]
観光 | - | -